私たちはだれもが、いつも「元気」で、「ふつう」で、皆から「あれ、今日は彼、どうしたんだ?」と、不思議な目でみられないよう、心配のない様子でいなければならない。この「暗黙のルール」を守ろうとしていますよね。学校、職場、社会。私たちは、皆の目の中で、たえず「適切な態度」はじめ、「適切さ」が求められることがわかっています。ちいさなこども、幼児教育の場から、早くも「適切さ」が求められる連続です。

この「暗黙のルール」が、おそらく日本でとくに厳しいのは、なぜなのか。私たちはどうしたら、「世間の皆の目」から楽になり、「自分がそうあるとおりに」なれるのか。今回は、このテーマを考えます。

「元気」「ふつう」「適切な態度」が、社会ではいつも求められる。 私たちが守るべきとされている「暗黙のルール」

あなたの身体や表情のちょっとした動き、判断・行動、毎日の学校や職場でのいろんな場面を、思い浮かべてみてください。
私たちは、自分がきちんと意識しているより、はるかに細かいこと、なんとなくやっていることにまで、自分が「元気」「ふつう」、時には「優秀」である様子でいなければと、かなりの圧力を自分にかけています。

「おはよう」とあいさつされたら、どんな「おはよう(ございます)」のトーンで返すか、それは「適切なゾーン」が決まっていますよね。このときの、あいさつですれ違うすべての身のこなしが、「適切さ」を欠いてはならない。

「場に対する適切さ」が、皆のようにはもてない、皆とちがう。
発達障がいや、その傾向があるとされるお子さん、おとなの方は、そうみられがちですよね。

心の病気の場合は、どうでしょうか。心の病気は、いまではありふれた、だれもがなりうる疾患だと言えますが、心の病気の人が、「元気でない」「ふつうでない」様子でいたら…。
周囲は、その人が心の病気だと知っている場合は、心配すべき状態だ、具合が良くないんだ、と見ますよね。

一方で、心の病気だと、学校や社会で打ち明けていない人は、たくさんいます。発達障がいの場合も、少しこの傾向がある、といった場合は、だれもが周囲にご自分の困難を説明しているわけではありません。

病気や障がいを「はっきりと明かしていない」人たちは、「元気で、ふつうの人に見える、この様子を貫かないといけない」。このプレッシャーが、いつもかかっていますよね。

元気でしようがない人でも、ちょっとでも「あれ? Aさん、今日ちょっと、おかしいな。何かあったのか」と周囲に思われるような、「いつもとちがう感じ」を、そうそう与えてはならない。これは、前提となっていますよね。

私たちはだれもが、たくさんの圧力から、なかなか自由になることができない。

私たちの社会はどうして、これほどに、私たちに「厳しく」、私たちをいつも「楽にしてくれない」のでしょうか。

日本人の「和」を尊ぶ習慣と、「もっと根底にあるもの」

20世紀の深刻でならなかった心の病気、統合失調症は、今世紀には、格段に軽症化(軽くなった)。
私は大学時代、1990年代から、心の病気、障がいをもつ人たちが暮らし、働く作業所を立ち上げる現場にいて、関西中の精神病院で(なぜか、特別に)実習させてもらっていました。
学術の世界で、大学院まで研究したのは、統合失調症をはじめとする心の病理。

統合失調症の「軽症化」を、長年、私はよくよく感じてきました。そして、発達障がいの人が急増したこの社会を。
「統合失調症の軽症化」「発達障がいの急増」は、日本人が「人とのちょっとした、微細なちがい」こそに注目し、「ちがっている人間」は、「皆の適切さを守れない、適切さに至れない」人だとされる。この「間を読む空気」をどんどん強めたように思います。元気で健康な人も、「とても細かいところで、判断される」ことは、「暗黙の前提」です。「和」「村」から疎外されることがつらく、「仲間外れにされることは、良くないことだ」と考える日本人はとくに、「細かいところ」を逐一、見て取り、どんな人(こども)と一緒にいると、自分は楽で、この場に居やすいか、疎外にあわないかを、いつも考えていますね。私たちは、日本人の昔からの「和を尊ぶ習慣」から、このような意識をたえずもつのでしょうか。確かにそうなのですが、ほかにも「人間社会のしくみ、心の前提を作るもの」があります。私たちが、自分は「元気」「ふつう」といった様子を見せるべきだ、との「暗黙のルール」を「いつの間にか自分に課している」のは、「もっと根底にあるもの」が働いているためでもあるのです。

和歌山県橋本市の不登校、ひきこもり、「苦手」業務に悩む方の相談支援、カウンセリングを行う学びの場をひらくエーミールから、高野山にのぼり、さらに標高の高い龍神スカイライン、ごまさんタワーの案内標識

「ふつう」「適切さ」を欠くと、どうなるのか

古い新書ですが、このことにはっきりと立ち入った、かなり強気で書かれた本があります。
精神病理学者・精神医学者の木村敏が1973年に書いた、『異常の構造』(講談社現代新書)です。これは、20世紀後半の反精神医学の流れで、精神医学者として、差別・偏見をうける心の病気の患者さんを守るため、いわば「書かねばならなかった」というべき書です。

この時代は、「正常」「異常」ということばで、「ふつう」の人と、「適切さを欠いた」人とを区別していた。精神医学の歴史、「この時代だったから、こう書かれた」事情がひしひしと感じられる著書で、いまの時代の事情、感覚とは、だいぶ異なるところがあります。いまでもよく知られた書ですが、今日はタイトルのみのご紹介としますね。

いまでは、「正常/異常」ということばでの判断は、社会ではあまりなされません。「異常」が「差別的な響きを私たちに与える」ため。

そして、さらに根源から、私たちが守る「暗黙のルール」を言い尽くした精神医学の古典があります。

「健康者がどんな安全、安心の前提で、この世界に生きているのか。これについて、なんの教養もないはずの、ある心の病気の女の子(症例アンネ・ラウ(仮名))が、自分なりのみごとな表現で言い当てた。『私には、だれでももっている、この前提がない』、これが私の病気だと苦しんで。この症例の考察に徹した」著書が、いま紹介した木村敏先生の親友であり、ライバルであったW.ブランケンブルクの『自明性の喪失 ー統合失調症の現象学』(木村敏ほか共訳、みすず書房、原書は1971年。表題は、必要があって私(後藤敦子)が一部改変)。
このドイツ語の著書のタイトルをわかりやすい日本語にするなら、「『自然にあたりまえなこと』をなくすこと」となります。

「ふつう」とも、「本当の自分」とも、仲良くなることが大切です

「考える力養成セミナー アンネ・ラウ」事業案内のページはこちら

私のセミナーの呼び名にしている、この「アンネ・ラウ」(仮名)という「知る人ぞ知る」20歳の女の子の患者さんについてー これは、これから何度でもお話する機会があるので、今日は、今日のお話の「目標地点」へと急ぎます。

だれもが、常に「元気」「ふつう」、そして「適切さ」を求められている。このことがしんどくなったり、疲れたな、と感じることもありますよね。人によっては、「毎日どころか、始終(しじゅう)、こればかり意識しないといけないのが、もうしんどい」のです。なぜ人間社会って、こんなに厳しいのでしょうね。

この「暗黙のルール」から楽になるために、「いますぐに使える心のもち方」として私がお伝えするのは、

「ふつう」とも、ふつうでないときもあるはずの「本当の自分」とも、仲良くなることです。

「ふつう」とは、実は実際にそういう個人が特定されるわけではなく、世の中で「これがふつうだ」と考えられる傾向にある状態、様子、態度、判断、行動。そう、世の中には「実体として存在しない」ものなんですよ。

ふつうでないときがあったって、いいじゃないか。みんなとは、だいぶちがう人間だって、それでいいじゃないか。
こう思う「自分」は、もちろん実在の、生きて暮らす人間。

こんなふうに、「ふつう」と「本当の自分である『私』」とは、「実在しない・見えない価値基準」と「実際に生きて暮らす人間」です実に非対称の(同じ(次元にある)ものどうしではない)関係なのです。

「非対称」は、ちょっと難しい話ですね。興味のある方は、参考にしてください。

とにかく、
A 「ふつう」という、みんなが、あなたが思い描く「あり方」
B 「あなたのありのまま」

どちらとも、心の中で、本当に仲良くなる。どちらも、肯定的にみてあげる。

それができてくると、「元気」「ふつう」がたえず求められるこの社会があなたに感じさせる重荷と、打ち解けることができるでしょう。

具体的な「続き」は、また後日。

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