代表の後藤敦子です。
今日は、不登校、ひきこもり、さまざまな困難をかかえるお子さんの「親」をずっと続けてこられた親御さんへ、この記事を書きますね。支援や教育、心理、福祉に携わる「専門職」「教員」「公的機関、行政」関係者の方々、そして「親になるってどういうことだろう」と、将来を考える方にも、お読みいただければ幸いです。

【構成】
1 親であることの尊さ、偉大さがこんなにも大切にされない社会
2 「親はぼろぼろになってあたりまえ」ではない。保護者・親にたいする「不適切な助言」や「考え方」、「あってはならない言葉」
3 親が「真ん中」にくることはない子育て支援や教育?
4 「真ん中」を間違えない、とはどういうことか
5 親のだれかが、「私」を語りだす必要がある。「一般論」は心に響かない

1 親であることの尊さ、偉大さがこんなにも大切にされない社会

私自身、「超」高齢出産で出会えた娘を育て、母子家庭(「ひとり親家庭」は、ある意味、「きれいごと」の啓発用語だともいえる)になるまで、なってからのどんなことにも耐えてきました。
親であり続けること、生計も家庭もひとりで担い続けることに、「できそうにありません」や「休みます」は原則、ありません。

けれど、「親はどんなときも、『できてあたりまえ』」、それが暗黙の前提となる。
(私の場合は超高齢)出産とは、どれほどのことか。
産後のその日から、一時の休みもなく「子どもに捧げる命」であり続けるのが、親である。

このことの尊さは、子どもの尊さ、尊厳に比べて、不自然なまでに語られること、認められることが少ないと、感じます。

親となり、親であり続けることの底なしの苦労と、すばらしさ。
親が、「私」の人生を幸せに歩めること。
この「ありのままが、素朴にきちんと語られている」場面に、メディアでも、地域でも、なかなか出会いません。

若い方が結婚しなくなり(生涯未婚率は高まる一方。要因は多々、あると考えられますが)、
女性が懸命に築いてきた仕事が、出産・子育てでどうなるのかと悩む、少子化に明るい見通しが立たない。
「親となること」「親であり続けること」、そして「『私』の人生」がどんなことであるのか、
知る機会があまりに少ないのだから、少子化が進むのも、「わかる、納得できる」ことだなあ、と。

2 「親はぼろぼろになってあたりまえ」ではない。保護者・親にたいする「不適切な助言」や「考え方」、「あってはならない言葉」

元気でしようがなかった私の娘が、昨年、転園したこども園で心をすり減らし、これまで見たこともない、力をなくした娘の表情・姿に、私は驚きました。元気になるまで、長期、かかる可能性も考えています。

私は幼少からの自分がどんなふうだったか、娘に話すことはなかったはずなのですが、娘は私にそっくりの心と知性をもつ、品格が大切だと考える子に育ちました。「私より、私に似てる娘」を守り育てるしあわせ。涙を流して喜びました。
純粋で優しい心。架空、想像、夢の世界にいきる豊かさ。独創で考える力。私もかなわないと思う部分がある、ずば抜けた記憶力。センス。

娘のすばらしさ、能力の高さを転園先で知ってもらうことはとうとうできないまま、まもなく卒園を迎えます。
こんなにも「苦手の多い子」とばかりとらえられ、娘が「私はできない子」と悲しむ必要は、さすがになかっただろう。
私からみると、幼児教育に携わる方の「世界の狭さ」を感じるほかない面が多々、あります。

そして、品のある文化をもつ子ほど、「みんなと合わない」孤独を余儀なくされるのは、地方ではとくに顕著ではないかと思います。

上品な文化、高い知性、宝となる繊細な感受性をもつ子ほど、
学校はじめ教育機関で、疎外にあいやすい現実。

不登校、ひきこもりの子たちと親御さんに向き合うなかで、
私がいちばん感じてきたのは、このことです。
娘に共感を寄せてくれる不登校、ひきこもりの子たちは多いです。

私は、打って変わって、健康が危うくなった娘のようすに心をいためたのはもちろんですが、
親であり、専門家でもあるので、各所に、娘の支えをお願いしたい先生や職員さんに経過を話し、
とれる方法はすべてとって、娘と向き合う時間を、圧倒的に増やしました。

いわば「この世界の関係者」ですから、各所でたらい回しにあうことはなく、
「私がたらいを回している」といえばいいのか…。
私のような専門知見はとくに持っておられない親御さん(保護者さん)の場合、

あちこちに理解、助力をお願いし、
何度もおなじ事情を話しては、あまり甲斐(かい)がないこと、悲しみの打撃が増えることの繰り返し。
「こちらでは、そういったご相談は受けられません」などと、
適切な他所につないでもらえない苦労は、どんなに大きいことかと思います。

心ない言葉、不適切な助言、さらに、「あってはならない言葉」を助言として示されることも、多いですね。
子どもの不登校は、「(お母さんの)愛情不足ですね」といった助言が、教育機関で平気でなされている実情。
「愛情不足」とは、どこからもらってきた受け売りの言葉なのか。
言っているあなたは、だれなのか。

学校の先生が、不登校の生徒さんに「登校刺激を与える」と言うのにも、驚きます。
だれか、なにかから刺激をうけるのは、あなた(教師自身)だけにしなさい。

心の疾患や生活の不自由さ(障がい)が深刻で、外出がひとりではまず、できない青年(ひきこもりに伴って生じる疾患・生活障がいや、広義のひきこもり)について、教育関係者が、いまの教育用語「困り感」をむやみに使う。
「『困っているような感じ』ではなく、苦しみぬいているんですよ」と、私も困ります。

3 親が「真ん中」にくることはない子育て支援や教育?

私はいつも、「『だれが真ん中なのか』、ここから間違えている支援者・教育者が多い」と、
まず「真ん中」を間違えないこと、このことを各所で伝えています。

娘を育てるなかで、私自身が日常、この問題に遭遇することの連続です。

支援者・教育関係者の方が発する言葉(=考え方の根幹)の例:
●「今日は、(元気な)〇〇ちゃんに会えてよかった」といった言葉のみ

私がこの子を守り育てているのだけど。「子ども」しか見ていない。
子どもは、どこから生まれたのか。何を食べて、毎日、大きくなることができているのか。
わかっているとは、思えない。

●「〇〇ちゃんは、どうしてますか」
いま、真剣に電話をかけているのは、「私」です。「私が話す内容」にまず、耳を傾けませんか。

4 「『真ん中』を間違えない」とは、どういうことか

私の仕事で、説明しますね。
【注:わかりやすいように、単純化してお話しています。
実際は、この「続き」で、「『真ん中』となる方が変わっていく」場合もあります。】

●ひきこもりや、外に出られない疾患、障がいの状態が続く青年のお母さんから、お電話があったとき

「真ん中」、まず「お母さん」です。「お母さんのお話」「お母さんの心や苦労」と向き合うことから、始めます。

●ひきこもりの青年とお話するとき(カウンセリングなど)

「お母さん/お父さんは、長年、本当にたいへんな思いをしてこられたよね」
という思いが前面に出ることは、ありません。

「真ん中」は苦しんでいる、そして長年、報われない苦しみに耐えてきたご本人です。
かけがえない人生を犠牲にしたことに、悲しんでやまないご本人の言葉に、
なんの「大げさな表現」や「おかしなとらえ方」、「自己中心」もありません。
自分を中心に、自分の人生を考えられないとしたら、それは心配なことです。

5 親のだれかが、「私」を語りだす必要がある。「一般論」は心に響かない

私は、答えも、先のあり方もみえたわけではない人間ですが、
飾ることも、「客観性」「一般論」で逃げることもない「私」のこととして、
「親の尊さ、人生、幸せ」をきちんとテーマにする必要があると、考えています。
私は自分について話すことがひどく不得手(下手)です。
でも、だからこそ、「不器用に話す」ことを大切にすべきなのかもしれない、と。

それでは、またお会いしましょうね。
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