このエントリーでは、「学びの場をひらく エーミール」代表・後藤敦子のFacebook投稿(https://www.facebook.com/AtsukoRau)を一部転載。文部科学省が新しい学習指導要領として掲げる「生きる力 学びの、その先へ」について、私、後藤敦子の観点からお話。
繊細な感受性をもつこと、もって生まれたこと。ヴァルネラビリティ(vulnerability;傷つきやすさ、脆弱性(ぜいじゃくせい))。一面では弱い性質であるかに思えるこれらは、得がたい知性、「考える力」で、「生きる力」として、実に強靭(きょうじん;ひじょうに強いこと)です。
年内に始動予定の「考える力養成セミナー アンネ・ラウ」(サイト制作中)では、「考える力」として、私は「感受性」がまず必要だとお伝えしたいと思っています。

「繊細な感受性」と「知性」「学力」「生きる力」がどう結びつくのか、悩み、考えておられる親御さん、お子さん、社会人の方、教育関係者の方。みなさまへに向けて、お話します。

ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、脆弱性)は「得がたい強靭さ」である

…ほかに選択の余地がないとはいえ、こんなに強くなれるとは、数か月前は、私自身も想像していませんでした。vulnerability (傷つきやすさ、脆弱性)は、「得がたい強靭さ」であるとは、長年、知ってはいるものの。

私は今年の5月に離婚し、就学前の子を育てる個人事業主として仕事をするようになりました。
この「学びの場をひらく エーミール」も、今年の春に改めて、立ち上げたばかりですし、いまはあたらしく始める事業「考える力養成セミナー アンネ・ラウ」の準備の事業相談や、運営に必要な学びで忙しいです。

それが吹き飛ぶほどたいへんなのが、就学前の子を、けっして強健ではない私が24時間守り育てること、休みはまず、数時間もないこと。そして、今後の子どものすべてを守りきる、家事も仕事も、子育てと不分離の(分けられない)ものとして、やっていくことですね。

私がこれまでやってきた仕事も、実はお子さんや青年たちを「ごく一部分、都合のよい時間に」支え、教えてきたに過ぎない。お母さんはじめ、親御さん・保護者さんがいかに絶大な「命を守り育てること」をされているか。そのことも、いまになってわかってきた次第です。

私は、生来のヴァルネラビリティ(vulnerability;傷つきやすさ、脆弱性)を「克服」したわけではありません。みなさんに授業・受験指導をするときも、ひきこもりの青年の生活の不自由さ、障がいや病気を楽にしていく相談助言をおこなうときもそうですが、私は、「苦行」や「克服」にとりくんでもらう必要がない、それはお勧めしない、といつも言っています。

ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、脆弱性)を「克服」するのではなく、そのままで生きること。
それを「きれいごと」で言うのは、簡単です。

私が、小手先の「どうしたらいいか」の具体的な知識・方法・スキルを先にお伝えしないのは、「ご本人の傷つきやすさ、弱さのすばらしさを『感じる』」ことから、この意味での強靭さの「すべて」は始まる、と考えるためです。

ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、脆弱性)の高い方を支えるには、ご本人がすでに気づいている「繊細であることのすばらしさ」を、どう現実社会で叶えていきたいか、ご本人とまず、お話するのがいちばんです。そして、親御さんに、理解して応援していただけるよう、私からお伝えしています。

文科省の「生きる力 学びの、その先へ」にみる「その先へ」を感じる力

「考える力の基礎をつくる・伸ばす」って、文科省が提示する新しい学力、教育方針そのものなんですが… 事業相談で、弁護士、Webコンサルタント、動画制作会社や、さまざまな分野の経営で活躍される社長さんたち、いろんな先生にお世話になって、子どもさん・学生さん・若い方向けの講座から、まず始めていこう、とようやく方針決定。

文科省が「生きる力 学びの、その先へ」を大切にしている。「~の、その先へ」と、その理念をはっきり掲げる企業や組織が増えたな、とも。
あることをめざすが、「その先」の「なにか」=(英)something/(独)etwas への感受性をもっていることこそが、私たちの尊厳であり、可能性である。私たちが「根源へと還りたい/きっと、届きたい」ところは「どこなのか、なんであるのか」。確証なく、こころ細い道のりであっても、探りあて、自分で歩くと決めることが、どの子も、どんなときもできるように。

文部科学省の新しい学習指導要領では、「生きる力 学びの、その先へ」と掲げられています。すてきな理念ですね。
学校で学んだことが、明日、そして将来につながるように、子供の学びが進化します」と、書かれています。

目先の実益、実践性にばかりとらわられず、子どもが自分の人生を生きていくこととして、「生きる力 学びの、その先へ」を考えるなら、私の表現だと「学ぶことの、『その先へ』と子ども、若い方が向かうことができるように」となります。

目標の、さらに「その先へ」と意識をもてる、向けることができる。
これは実は、「学ぶこと(学び)」と同じ(イコール)ではないか、と私は考えています。

「学び」=「学びの、その先へ」(と向かうことができること)


これが、数学でいえば等式として成り立つところが、「ことばでもって『考える、表現する』ことの力」だといえます。
ことばの遊びではなく、学ぶこと、学習、進学、就学、また、いま人気の「おとなの学びなおし」…。

これらは、そもそも、「学んで、その先へ」と向かうことができる力を、その内にもっている。
すこし高度な国語表現になりますね。

また次回以降の記事でお話しますが、
要するに「学んで、終わり」「学校で学んだことなんて、社会に出て役に立たない」と考えるのは、もうやめませんか、と私はお伝えしたいのです。

テストで高い点数を取る。受験に合格する。就職に有利だ。実社会で高く評価される。

これらを真剣にめざすお子さん、若い方には、「社会で評価されるこれらの目標を達成するために、勉強すればいいんだ」「『目標』を達成したら、学んだことのなかで、『実社会で役に立つものだけを』使えばいい」と考える子が、本当に多い。
いえ、おとながそう考えているためでしょう。子どもは高校生、大学生になっても、「はみ出した」ことに、興味をもって走れますよね。

「実社会」でない「社会」は、あるのでしょうか?
ありませんよね。
あえて「ある」とすれば、「『実社会』で見せているあなたではなく、あなたがもっと、あなた自身でいられる世界」があって、それは「実社会では、好まれない/役に立たないことがある」ということではないでしょうか。

「学習」「勉強」「学校」「大学」「就職する」「仕事ができる」「社会で役に立つ」。
教育に携わる者はもちろん、おとなたちが、学ぶとはどういうことか、子どもたち、若い方に本当によく伝えようとしてきたのか、やはり「伝え方を変えなければならない」と思うのです。

なぜ貴重な子ども時代の20年ほどを、なんの役に立つのか、よくわからない教科、科目履修(単位取得)に懸命にならなければならないのか。
これが、将来、社会に出た自分たちのなんの役に立つのか。

この「疑問」を抱えたまま、成績や受験、就職や起業でよい成果を上げることをめざして、必死にならなければならない社会。

この「疑問」にまじめに答えることから、私は始めたい。

「考える力養成セミナー アンネ・ラウ」では、「この教科で、子どもはなにを学んでいるのか」がわかる講座を作ります

子ども、若い方が、学校や高等教育機関で「一体、なにを学んでいるのか」。
「考える力養成セミナー アンネ・ラウ」では、国語、数学、英語の三教科は「なにを学ぶものなのか(本質)」、
これらの教科が「底でどうつながっているのか」が

「わかる! そうだったのか、知らなかった」

と、受講生さんが「その場で考える」ことができる各講座を作ります。

学びの場をひらく エーミール/考える力養成セミナー アンナ・ラウの塾・相談室がある和歌山県橋本市高野口町の高野口公民館の図書・資料
(写真は「学びの場をひらく エーミール」の塾・相談室がある和歌山県橋本市高野口町の高野口公民館にて。筆者撮影)

ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、脆弱性)は考える力、知性そのもの

いまやっていることは、「何かの、その先へ」とつながっていることなのだ。
この「感受性」をゆたかにもてるのは、「ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、脆弱性)」です。

みなさん、コロナによって、「これまであたりまえに守られていたこと」がなにもかも崩れ去ってしまったことをお感じだと思います。
世界中が、経験したことのない苦境にある。けれど、私たちが「この先」をみていくことがいかに肝要か。

コロナの悲しみ、痛みが尊重されてこそ、「この先」がある。そう考えたい。

「ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、脆弱性)」は、否定的にみられるべきものではなく、いまの私たちの「生きる力」であり、「考える力」「知性」だといえるでしょう。

おすすめの記事