このエントリーでは、不登校とひきこもりの違いについて、理論や専門書、研究からではなく、支援者の私が感じてきたことを、お伝えします。つまり、「エーミールのサイト、ブログだから知ることができること」が大いに含まれている、ともいえるでしょうね。

不登校とひきこもりの違い

不登校とひきこもりには、大きな違いがあるように、私は感じています。また、不登校もひきこもりも、この名称、呼び名でひとくくりにすることが、果たして適切なのか、私は疑問をもっています。
この呼称(呼び方)が、社会のひとびとが不登校やひきこもりに対して抱くイメージに、よい影響を与えているとはあまり思えない、というのが私見(私の考え)です。
名称、呼び名は、たとえば精神医学や心理学、教育の世界でも、非常に重要なものだと考えられてきました。そのため、たとえば、長く使われてきた疾患名が、精神医学で大議論の末、名称変更されてきた歴史が、たえずあった、といってもよいほど、頻繁に(ひんぱんに)あります。
社会で誤解や、望ましくない受け取り方をされやすい名称は、名称変更によって、そのようなことを変えていかねばならない、という意識、努力も、ここで大きく働いています。

不登校のお子さんは、さまざまな場合に、かなりはっきりと分かれる

さて、名称についての戸惑い(とまどい)は、この記事の核となるテーマではないので、本題に入りますね。

不登校や、不登校ぎみになるお子さんの中でも、いろいろな場合、状態に、かなりはっきりと分かれるように思います。つまり、それぞれの場合をひとくくりに、同じ「不登校」として考えることができないように、私は感じています。

ひとつは、仲間はずれやいじめ、学校での出来事や学級の状態がきっかけとなるなどの経緯で、お子さん自身も思ってもみなかったかたちで、学校に行けなくなる場合。学校に行くことがつらくなった段階や、行けなくなった段階では、お子さんは健康度も、学校での生活や勉強についても、大きな心配はなかった、ということも多いです。

また、急激な成長過程をへていくなかで、お子さんのなかで、またまわりの生徒さん/お子さんとのあいだで、戸惑いや疎外感、合わない感じなど、成長の過程としては自然で、必要とさえいえる感覚であっても、そのことが苦しくなり、学校や学級の中に居づらくなる、という場合があります。

とくに思春期や第二次性徴など、お子さんが自分の変化(成長)に戸惑いをもち、周囲にたいする敏感さが増大しても、それは自然なことだ。そんなふうに、どの子もある意味、しんどさや困惑を抱える時期が、子ども時代には何度もありますね。

ひきこもりの青年のほとんどが不登校を経験しているのに、不登校とひきこもりで大きな違いがある

それから、ほかの子と、なにか「合わない」「違う」と感じることが本当につらくなり、学校や学級から遠ざかるようになるお子さん。以前、精神病理学・精神医学で「アンダースザイン(ドイツ語でAnderssein)」(=ひとと(自分は)違う、という意識)という用語を、このブログでご紹介しました。

このような意識をもつ子どもの中には、周りの子どもと、思考力や感性や感受性、この世界に対する感じ方や考えようとする姿勢が、かなり違う、つまり差がある場合もあります。実に私は、この場合だったのだろうと思います。その「感じ」を、幼少のころからもっていた。

学校でも、小学2年で、先生から「この子は小学4年です。2学年違います」と言われていた。その後も、私は、その考える力や感性、感受性の細かさ、繊細さをいかせたこともたくさんありますし(今の仕事でもいかせています)、それが周囲のひととのあいだで、孤独や「明らかに合わない」感じをもつ、という状態は、いまでも続いている部分はあるのだと思います。

周りの子や、ひとと、深い意味で「合わない」「違う」という感覚(精神病理学・哲学では、「先験的(経験に先んじて)」、つまり自分で意識して経験としてもつ「以前」に、すでに「違い」があると考えられることとして、非常に大切に扱われてきた)感覚が、心の疾患やそれに近い傾向につながる場合もあります。

疾患になるかどうかのぎりぎりのところで、学校時代につらく苦しい思いをずっと抱えるお子さんもいます。

それから、大きく注目されるようになってもう長くたつのが、発達障がいや、その傾向(微々たる傾向である場合もある)、あるいは軽度知的障がいの可能性があるといわれたり、そのような周囲の子との「違い」や、「一緒に学ぶことが難しい」ことから、学校生活がしんどくなることは、とても多いです。

小学生など、早い時期から、心の疾患や発達障がいをもっていたり、罹患する(病気になる)場合、日常生活や学校生活がままならなくなるのは、みなさんも理解できるかと思います。

多いのが、子どもの強迫性障がいや、思春期以降になりやすい対人恐怖症(社会不安障がい)など。子どもの強迫性障がいは、あまり知られていないと思うので、別のエントリーで取り上げますね。

ひきこもりの青年の「本当のこと」は、ほとんど社会に知られていない

不登校だけでも、上の分類では到底、説明しきれないほど、さまざまな場合があります。ほかの子とのあいだで、「できない」「遅れている」といった場合より、「先んじて、気づきが高い」「感性や感受性が秀でている」と表現するのが適切だ、と私が考える場合は、とても多いのです。

むしろ、そのような部分がなければ、学校から離れるという行動に、子どもは至ることがほとんどできないのではないかと。

さて、ひきこもりについて、長くお話すると、記事を読んでいただくのが大変になるくらい、不登校について、ざっとであるのに、お伝えすることになりました。ひきこもりについては、これまでの記事でお話してきた内容もありますし、今回は「不登校との違い」に限定して、お伝えしますね。

ひきこもりのお子さん・青年のほとんどが、学校時代に苦しさ、つらさを感じ、不登校や、それに近い状態を経験されています。

その中で多いのは、発達障がいやその傾向、あるいは、そうではないけれど、「集団=みんな」の中で学校生活など、生きて、暮らしていくことが、うまくいかないとか、苦しい、つらい「なにか」をもっているお子さんです。

そして、本格的なひきこもりになるお子さんの多くが、精神や発達のうえでの障がいや、その傾向を医学・福祉のうえで、認められています。

つまり、生活に不自由さが多かったり、多くのひとの中で居られなかったり、「外出しようにもできない」とか、「外出できても、その『次』のさまざまな社会参画がとても難しい」という切実につらい状態にあるのです。「ゲームやネットばかりして、働くのをさぼっている」ような、ひきこもりについて、時に社会のひとびとがもつイメージのとおりを生きている青年は、まず、ほとんどいません。

生まじめで、礼儀正しく、さまざまな面で能力が高い青年が多く、必死になんとかしたいと思っていたり、その努力にも疲れたり、あきらめかけて、よけい状態を悪くしてしまっている。そのような状態が続いてきた。

そんなひきこもりの「若年層」(15歳~39歳)の青年たちに出会い、向き合ってきた私は、自分はひきこもった経験はまったくないのですが、本当に彼らのつらさや能力の高さに、ある意味、共感するようなかたちで、心いたむ思いをもってきました。

ひきこもりになる青年のほとんどが、不登校やそれに近い状態を経験しているのに、不登校の子どものごく一部しか、ひきこもりになることはない。統計や推計人口によらなくても、支援者として、私はその実感をもっています。

ここから、不登校とひきこもり、それぞれの状態について考え、彼らの状態を、彼らやご家族、親御さんが本来望んでいる状態に向かえるよう、支えていくことになりますね。

子どもは「予防」のために生きるわけではない

最後に、いまは、「不登校もひきこもりも、予防の時代に入っている」と、よくいわれます。これについて、この記事では深く立ち入ることができませんが、おおまかにいって、「予防」ということが、実際どこまでできるのか、そのことに私は疑問をもっています。精神病理学では、ずっと以前から、私の恩師の木村敏先生がはっきりいわれているように、「(ひとは)生きるために病気になるのだ」という考え方(これは「目的論」(~のために、という考え方)になる)がありました。
生きぬくために、病気になる。これが、仮説としてもどの程度適切かどうかはともかくとして、この考え方からも、「子どもはなにかの『予防』のために生きるのだろうか?」という疑問が私に起こるのです。
周囲が不登校やひきこもりの「予防」を意識して、努力することは、なされるべきだと思いますが、生命体として、生きて、成長や苦しみなど、さまざまな変化をとげていく子どもについて、彼らの「生きる力」「状態」の本質に、「予防」概念(「予防」という考え、意味)が大きな位置を占めているとは、考えにくい。
そして、不登校に限るなら、「不登校はどこまで予防すべきことなのか」という課題意識が、私にはあります。不登校を否定的に、ネガティヴに考える必要はないのじゃないか。非常に貴重な内的契機(心のきっかけ)を、そこに見いだすことができるのだから。
また、社会や集団や学校の中でうまく生活を送ることだけが、生き方ではない、と私は思うためでもあります。それでは、また続きのお話で、お会いしましょうね。
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