このエントリーでは、日本では、カウンセリングに対して、敷居が高い、受けづらい、受けることに抵抗がある、受けていると知られたくない、あるいは、受けたくない・・・。そういった感覚をもつ場合が多いことについて、お話します。とくに、日本人らしい心性、日本人ならではの「個」や「自分」のあり方に注目して、このテーマを考えます。
内容
1 日本では、カウンセリングは敷居が高い、という感覚がある
2 日本人らしい心性、日本人ならではの「自分」のあり方

カウンセリングは、敷居が高く感じられることがありませんか? 「カウンセリングを受ける」のが、自分だとすると、なんだか自分は、カウンセリングとかいうものが必要な状態なんだ、と、そのことに傷ついてしまう、つらく思ってしまう方は、いらっしゃると思います。

お子さんの場合、このことはずっとよくあることです。「僕(私)はカウンセリングを受けなければいけない、ほかの子とは違った、問題のある子なんだ。心が病気なのかもしれない」等と、つらい思いで苦しんでしまい、また、周囲の目が気になる環境(たとえばスクールカウンセラーのカウンセリングを受けに行く場合)だと、ほかの子から特別な子なんだ、という目で見られるのではないかと、そのことも恐れてしまう。

ですので、私はお子さんの場合、いわゆる純粋なカウンセリングを行うことは、かなり少ないです。お子さんが抵抗なく、前向きな思いをもてるよう、「英会話を勉強してみる?」「家庭教師です」というかたちで、勉強を教えるなかで、お子さんが少しずつ、今、つらいこと、苦しいことを話してくれたら、その話を受けとめ、一緒に考えます。お子さんの意識のもち方や希望によっては、カウンセリングというかたちをとったほうが、つらく苦しんできた状態が、やっと、楽になるのでは、という気持ちをもってもらえるので、その場合は、カウンセリングに徹しますが。

私は国家資格キャリアコンサルタントですが、2016年に創設されたこの新しい国家資格が、「キャリアカウンセラー」という名称にならなかった理由のひとつも、日本での「カウンセリング」の受け取られ方にあります。日本では、カウンセラー、カウンセリングというと、治療的な意味合いが強く、それを避けるためもあって、「キャリアコンサルタント」が国家資格名になりました。でも、キャリアコンサルタントは和製英語で、英語では、career counselorといちいち言い換えないと、通じません。2016年創設の新しい国家資格名が和製英語だと、子どもがたとえばキャリア教育で、さまざまな職業、仕事について学ぶ場合も、英語を学ぶ場合も、支障が出る可能性があります。また、こちらの地方(田舎)では、この資格名をお伝えしても、何をする資格か、すぐにわかる方は、ごく限られています。

さて、「アメリカなど海外では、専属カウンセラーがいたり、カウンセリングを受けるのは普通のことなのに」と、日本でのカウンセリングへの「敷居の高さ」「抵抗感」が、アメリカなど海外に比べて、日本人の意識が、遅れているかのような表現がなされる場合があります。でも、私はそうは思いません。もちろん、カウンセラーやカウンセリングに対する認知度のちがいはあるかと思いますが。

日本人らしい心性(心のあり方)、自分が自分として、個として確立されているのではなく、日本人は、人との「あいだ」で自分を作り、周囲との「あいだ」に自分を見いだす。このことに真っ先に注目したのが、精神病理学者・精神医学者の木村敏氏(1931年~)でした。 私のいちばんの恩師である木村敏氏は、日本人が古来から、自然と分離不可能な自己をもってきたことも、重視しています。

私も、国語で短歌・俳句などを教えていると、自然のなかに自己を見いだす、自然の姿に自分の心情を重ね合わせる、日本人のこの特性を理解していることが、短歌・俳句を学ぶうえでも、とても大切になってくることを感じます。日本人は、桜が散ると、もの悲しく、はかなく感じる。木村敏氏は、欧米でのnature (自然)と、日本での「自然」の意味がいかに異なるかも、よく指摘してきました。

自然と分離不可能な自己を、現代っ子が古来からの日本人と同じようにもっているかどうかは、簡単にいえないテーマです。ただ、いまの時代のお子さんも、ますます、人との「あいだ」で自分を作り、周囲との「あいだ」に自分を見いだす。欧米人のような「個」の意識のしかた、確立のしかたとは、かなり異なるところに、「自分」がある。このことは、カウンセリングに対する日本人の繊細な思いのもとになっているように思います。

人との「あいだ」で自分をとらえると、自分はカウンセリングが必要な、場合によっては病んだ心をもっているように思えることが、人との「あいだ」では特別なことで、つらいことなのです。また、周囲との「あいだ」に自分を見いだして、認めているので、周囲とはちがう自分、周囲から、「この人は、カウンセリングに通っているんだって」と見られることを恐れ、避けたく思う。

よほどカウンセリングが必要だと、ご自身で感じているお子さん・青年、親御さんでないと、「カウンセリングを受けること(受けに通うこと)」は、敷居が高いことになりますね。

私は、こういった「日本人らしさ」を貴重だと感じています。私自身も、カウンセラーと名乗ることや、カウンセリングをいたします、と広報することに、ある抵抗、戸惑い、あまり希望にかなっていない思いがあるのです。

「相談する」という表現なら、みなさんや、私自身の「抵抗」も少し、軽減できるかもしれませんね。

コロナの状況が深刻化、長期化し、オンラインでの事業中心に、カウンセリングの需要は高まり、カウンセラーも増えているもようです。ただ、今回テーマにした、「カウンセリングは敷居が高い」ということは、とくに来所して(通ってきて)いただくかたちでのカウンセリングでは、まだ大きい場合があるのではないかと思います。

また、続き、エーミールでは、代表・後藤敦子がどのようにして、みなさんを支える方針をとっているか等、お話していきますね。

おすすめの記事