このエントリーでは、しばしば課題とされる、ひきこもりから「立ち直る」ことについて、そもそも「どこ」から立ち直ることができるのだろうか、と、私のもつ疑問をお伝えします。幼少から、皆の中で過ごすことがつらかったり、困難で、皆のような「楽しい体験」が足りない、と感じる方の場合、そもそも「立ち直りたい」と望むことが難しい。そして、20代、30代、それ以降・・・になった方が、「皆のような、皆と楽しく過ごした経験がなかった」と、「取り戻せない長い年数」を悲しむとき、彼らとこれから、どんなふうに生きていくことを考えたらよいのだろう。ひきこもりの方やご家庭に非常に多い、このような悩み苦しみ、ご相談と、私の支え方について、お話します。

内容
1.  「どこ」から「立ち直る」のか? 「立ち直る」という発想への疑問
1.1 幼少以降の「どこ」から、どのようであったのか。さかのぼることは生きること
1.2 ひきこもりの青年は、皆のような「基盤」「体験」がないことを痛感している
2.    ひきこもりの青年、親御さんと私たちが「いまから築きたいもの」

「ひきこもりと暴力 ―精神疾患や発達障がいの場合」というテーマで、次の記事をぜひ書きたい、と考えていたのですが、先にこちらのテーマから書きますね。どちらも、非常に重要なテーマですね。

ひきこもりについての第一人者である斎藤環さんの『改訂版 社会的ひきこもり』(PHP新書、2020年)でも、「立ち直り」という表現がなされています。これから、昨年、改訂版として出されたこの本について、私が学ぶところ、そして私が斎藤環さんとは相当に異なる立場、見解をもつこと、その両方について、書かせていただくことが増えると思います。

ひきこもりからの「立ち直り」は、どうすれば可能なのか。こういった問いかけや課題の表現を、よく見るのですが、そもそも彼らは、「どこ」から立ち直ればいいのでしょうか? 

彼らの多くが、ごく小さいころから、同年代(同級生)の皆のような「みんなと、友達と楽しく過ごした経験」が(あまりに)少なかったことを、つらく悲しく思い返して、私に話してくれます。彼らは、「大人の年齢になっても、いつまでも、そんな子どものころのことを、嘆くなんて」「それは、彼らの~~~という~~~なのだ」と、治療者、支援者を含む周囲から、受け取られたり、解釈されたりする場合があります。

私は、彼らがごく小さいころから、皆のような「楽しくみんなと過ごした経験」が圧倒的に少ないことを、取り返しがつかないと、つらく悲しく思うことを、不自然だとは思いません。

また、彼らは、そうした「普通の楽しい経験」がごっそり抜けているために、社会の中で、皆の行動や会話の基盤となっているもの(=「子ども時代の普通の経験」)が足りなくて困る場面が、多々あるのです。「こんなに遅くなって、いまからどう築いたらいいのか、補ったらいいのか」と、絶望的な思いで、途方に暮れているのです。

もちろん、学業、そして就労の経験がある程度もてて、そのうえで、途中で挫折したかたちでひきこもりが続いている方の場合は、上に書いた様子とは、かなり異なる場合があります。

今回は、ごく小さいころから、つらかった、皆のようではありえなかった、その後「ひきこもり」と言われるようになった青年の場合について。彼らは、「どこ」から「立ち直り」をめざせばよいのでしょうか? 彼らは、立ち直れるような「基盤」(体験)がないことで、皆のような行動や会話ができない、社会で生きていくには、それがどんなに大きな「欠如」であるかを、痛感しているのですから。

彼らが、子どものころから、どんなにつらく、皆のようにできなかったか、楽しいと思えることはほとんどなかったかを悲しんで伝えることで、一面では、彼らは「いったい、自分は『どこ』から、だめだったのか」と、その「どこ」を探し求め、取り返しがつかないことを、ほとんど「決定的」であるほどに、痛手に思っている。そうは言えますよね。親御さんも、「あのとき、もっと早い時期に、もっとこうしてやればよかったのではないか」と、昔の育て方や、接し方、支援の求め方に、悔やむ点を見いだしてやみません。

こういう悲しみ、とくにひきこもりの青年の「もう取り返しがつかないほど、自分は大切な長い年数を失ったんだ」という思いを、昔への「こだわりが強い」などと考える方がいます。そう言える面もあるのかもしれませんが、なぜ昔の大きな経験の不足/欠如を、とめどなく悲しんではいけないのでしょうか。

悲しむ彼らから、私にいちばん伝わってくるのは、「生きたい」という必死の思いです。親御さんも、「いまからでも、どうか、人生の楽しさやすばらしさを知ってほしい」と、願っておられる。だから私は、彼らの「生きたい」願い、彼らや親御さんの「人生の楽しさやすばらしさ」を、いまからでも知ることができたら… という思いを、一緒に叶えたい、と思うのです。

その道のりは、まったくきれいごとではありません。けれど、時には、自分(たち)について笑ってしまうこともあるような、あるいは「すこしずつだけど、やっと前に進めているかな」と思えるような、楽しく、希望のもてるものであればと、その心を私は大切にしています。

さて、次回は、「ひきこもりと暴力 ―精神疾患や発達障がいの場合」について、お話を始めたいと思います。いま、上に書いた、「きれいごとではない」ということの典型ではないかと思います。もう、「どこ」の過去にも戻れない、どこにも相談する所がない、相談すべき所には、相談し尽くした。疲れた、と自分が口に出すことも、できない状態にある。そんなご家庭からのご相談を、エーミールではお受けしたいと考えています。

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