このエントリーでは、深刻なひきこもりの方の支援では、「目標」や、努力を応援した先の「着地点」を、どのように考えたらよいのか。「目標」「着地点」に到達するように支えることだけが、支援者の役割なのだろうか。当事者の方やご家族は、どう支えてほしいと願っているだろうか。そのようなテーマについて、お話します。

内容
1 だれでも「目標」に向かって努力し、願いを叶えたい
2 深刻なひきこもり支援では、「目標」「着地点」をどのように考えたらよいのか
3 「目標」「着地点」よりも大切だと思うこと

ずっと、通奏低音のように、私の中にある「考え」「思考」について、今日はお話しますね。深刻なひきこもりの支援では、「目標」や、努力の先にあるはずの「着地点」を、どのように考えたらよいのだろうか。そこでの支援者の役割とは、なんだろうか。「目標」や「着地点」をめざすことだけが、ひきこもりの方や、ご両親はじめ、ご家族を支え守る、ということではないのではないか。私の中にいつもあるのは、そのような考えなのです。

だれでも、「目標」や叶えたい「願い」に向かって、前進したいと思うものですよね。
でも、ひきこもりが深刻になった方の場合、ご相談や経過から、「目標」や叶えたい「願い」を明確にすることが、それほど容易ではないときがあると、私は感じています。

支援者の私としては、やはり、実現する可能性が高いことを、「目標」としてご一緒に考えられたら、と思う。実は私は、ときどきいわれる「着地点」などということばは、自分の考えには合いません。まるで、当事者の方のこれまでや、いまの状態・お考えが、現実に根をおろしていない、現実的でないかのような響きに聞こえるので。

「目標」を探り、ご一緒に考えても、いまの不自由さの多い状態では、それが実際、「目標」となりにくい場合が多々あります。また、「目標」や「叶えたい願い」をしっかり見据えることに、ご本人が向いていらっしゃらない場合もあります。

中には、ひきこもっていた、外出や部屋の外に出ることができなかった以前の状態が想像できないほど、大きく変わることができて、社会で進学や就労を叶えている方も、かなりおられます。それは、あまり知られていないことですね。

「目標」をまだ、具体的に考えることが難しくても、つらい毎日が、すこしでも楽になったら、と、私も、そのための相談・助言をたくさんしています。ご病気や障がい、外に出られない状態や、生活がままならない不自由さが、たとえ楽にならなくても、以前は考えられなかった楽しみができる、という場合だってある。どんな安全、安心も、心がすこし、やわらぐときも、私も一緒に喜びたい。

もし、私と出会ったことが、長く、苦しく孤独でありすぎたご本人や親御さんにとって、頼れることであるなら、それもとてもうれしいことです。本当に、どんなことでもいいと思うのです。

私たちは、社会の「普通」に近づくために生きるのではないし、叶えたいことが、当面、思い浮かばなくてもいいじゃないか。

不登校、ひきこもりなどのお子さん、青年の孤独・安全を支える電話・LINEなどの「対話時間」コースは、お客様のご希望から始めたコースですが、とても好評です。でも、続けて人と会ったり、話すことは、疲れてしまってできない方もいらっしゃいます。

私はよくこういいます。「人生の終着駅のために生きるわけではないしね。」

「目標」「着地点」。私だって、たいした「目標」も、「着地点」も、もてていないし、めざせていないのじゃないかな。

ひきこもりの方の思い、つらさ苦しさ、無念さ、不安をお聴きし、一緒に毎日や、生きることを考えられること。その時間を、ただただ、大切に思うのです。

すこしは楽になれるはずの道、前進できそうに思うことが、見えてきても、それをまだ、試みることができる状態ではない、という場合もあります。

いつも変わらず、太陽のようでいられたら。と、私は、支援者としての自分のあり方を、そんなふうにも思っています。

本当に、小手先のスキルや方策探しでは、役にたつことができないのが、この世界だと思います。
でも、なにひとつ、否定的に考える必要がない。周りのだれが、よくない評価をしようと、私は、ご本人の人生を、かけがえなく思いたい。親御さんの「精一杯」をはるかに超えた人知れずの苦労を、大切にしたい。

健康度が高い、不登校にはまだなっていないけれど、というお子さんでも、答えが出ないほど難しい状況にある場合もあります。

いまを大切にするとは、「答え」や「目標」をもつことではないんだ、と実感することが多いです。

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