このエントリ―では、トーマス・エジソンの名言、「天才とは、1%のインスピレーションと99%の努力である」に対する、一般に理解されている意味と、「逆の発想」で得たことをお伝えします。これはもちろん、エジソンがこのことばに込めたにちがいない意味を、正しく言い当てようとするものではありません。

そうではなく、今日、私がお話したいのは、「道をみつけられない」「これも、あれも、(もう)とても無理だ」と苦しむ不登校、ひきこもりのお子さん・青年と一緒に、私はどんな「1%の才能」を発見し、これからの道を相談しているか。お子さんの才能を1%、知ることが、99%の汗、努力以上に、鍵となる、とさえ言えるのではないか。お子さんが選びたい道を選べるのは、「針に糸を通すような」わずかな可能性なのだろうと、ご本人も親御さんも、不安でならないことがあるでしょう。私は、「そうではない、これからの道の作り方」をお話したいのです。

「1%の才能」を知る/もつことが、むしろ決定的なのだ、と考える理由

発明家のトーマス・エジソン(Thomas Edison)の名言、
「天才とは、1%のインスピ―レーション(ひらめき)と99%の努力である」
は、実によく知られていますよね。

Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration.

これを私が日本語訳するなら、「天才とは、1%の才能と、99%の汗である。」
となるかな。(”inspiration”(インスピレーション)を日本人がどうとらえたらよいか。それは、少し難しいです。)

この名言は、一般には、「天才だって、99%が努力の汗から、なれるものなんだ。(天才そのもの、と思えるような)才能やひらめきは、それに比べれば、わずか1%なんだよ」という意味に理解されていますよね。その理解で、自然だと思います。エジソンが、このことばでどんなことを言いたかったか、故人について確かなことを、私たちは知ることができないとはいえ。

私がごく最近、気づいたのは、
「わずか1%、ではなく、『1%の才能をもつことが、どれほどまれにもない、奇跡であるか。99%の汗・努力は、その才能をもつなら、必然でできることではないか」ということです。

これは私独自の、身勝手な「解釈」ではなく、「私が私自身について考えたこと」なのです。
つまり、私の場合、いわば「1%の才能」があったから、社会の多くの方とは、まるで異なるしくみで、
自分の生きる力、働く道を作ってきたんだろう。

そして、それ以外の生き方を私がしていたら、それはもっと無理の多いものだったのではないか。

この「1%の才能」は、私の人生で「決定的なもの」だったのだろう。
「99%の汗」は、「1%の才能」と一緒についてきたんだろう。切り離すべきものじゃないので。

うそなく言うと、いま、自分をそうふりかえるんですね。

社会の多くの方と、かなり「ちがうしくみ」で生きる力を作り、仕事をしているので、
多くの方が、容易に私や私の働き方を理解できないのは、わかることです。

私自身、この「1%の才能」「自分は皆と『ちがうしくみ』で生きて、働くのだ」(やりたくて、やっているのではないんですが)、これがどんなことなのか。これに気づいて、ずいぶん楽になり、自分を信じられた思いがします。

今日は、この「1%の才能」を、不登校やひきこもりのお子さんと一緒に発見する、そこから「これからの道を考え、作る」。この発想のセンスを、ヒントにしていただきたいのです。

お子さんが「困難とともに、本当に進みたかった道も選べる」図を一緒に描く

不登校、ひきこもりのお子さん・若い方と、彼らが取り返せない、と苦しむ長い、悲しい期間について、「…そうだね」と深くうなずいて、私はよく、こんなふうに提案します。

「あなたには、そんなふうに、無念で取り返せない時間(年数)があるよね。(いまでは、前よりもっと、『先に進めなくなった』部分(=病気が重くなった等)もあるよね。)
でも、あなたはこれから、『無念な僕(私)』として(のみ)、生きないといけない、ということは、まったくないんじゃないか。『ほかの道』も、もう、進み始めてみたらどうだろう? ここまでやってこられたのは、あなたの力なんだから。」

お子さん・若い方が私の相談(カウンセリング)や授業をへて、また毎日の生活や、よいきっかけや段階をへて、変わっていかれるのが早い。それが、「不登校」「ひきこもり」と言われるみんなの、すばらしい力だと私は感じます。

【注】「最終的に、どこに行き着けるか」という「人生の到達点」のことではありません。
人生って、「到達点」のためにあるものなのか。難しい問いです。
ご本人以外のだれかが、「先取りして、いま決める/予言する」ことではないのだろうと。

お子さんが、「これまでやってくることができた」とか、「変わることができる」なんて、とても考えられる状態ではない場合は、「自分に将来があるにちがいない」と感じることは、とても難しく、苦しいでしょうね。

そんな場合も、私はお子さんが、苦しんでいること、動けないままでいることを、否定的に考えることはありません。
「苦しんで、ますます動けない(または、動かないようにみえる)」状態にお子さんが至った(その状態を維持した)ことが、お子さんの「1%の才能」と関係することではないか、と考えます。

不登校、ひきこもり、この二つはかなりちがいますが、どちらも、
「1%の才能」から「これからの生きる道」を一緒に描くことは、十分できるお子さんばかりではないか、と感じます。
「1%の才能」に鍵がある子が、なぜか、ものすごく多い。

では、「99%の汗(努力)」はどうか。
お子さんが流せる「汗」は、社会の多くの方が流す「汗」とはちがうかもしれません。
それにとらわれなくてもいい場合がある。
とらわれると、実際、「生きていくうれしさ・たのしさ」を大切にできなくなるなら、
「とらわれるのを捨てる」のも、親御さんの勇気
ですよね。

「もっと、もういいかげんに、精一杯の努力をしてみたらどうなのか!」
という叱咤激励や、「なぜ焦らなければいけないのか」を親御さんがお子さんに説くことは、お子さんの「1%の才能」から離れる(=合わない)ことなのかもしれません。

【注】親御さんが叱咤激励、説明されるお気持ちには、よくよく共感します。
才能から距離をとる生き方も、私は尊く、賢明だと思っています。

お子さんが生きられる「しくみ」は、独特なものでいい

私が自分についてお話したように、社会の多くのひとの生き方や、うまく生きることができる「しくみ」。
「人生とは、こう努力するものだ」。
これに近づかなければ、とばかり考えてしまう。これを少し、ずらしませんか。


お子さんが、「自分の『1%の才能』が、相当に『決定的』で、いまに至るのじゃないか」考える、ご自分を理解するときがある。
お子さんの「ひととはちがうところ」から、日常生活の作り方や、生きる「しくみ」、将来の道を「一緒に工夫する」。

この「お子さんが生きるしくみ」を知るのが、どんなお子さんにも「尊厳」となるでしょうし、最も大切なことではないかと。

「まれなお子さん」であることを、改めて発見しませんか

本当にさまざまなお子さん、若い方がいらっしゃる。
「ひとなみになる」ために、必死に努力を重ねて、目標や願いを、昔、考えたものとはちがったかたちになっても、それを叶えていくお子さんもたくさんいます。

また、生来の「高い能力や気づく力」「学校集団や社会の組織にいることを、苦痛に思う感受性」を、あるときから、「才能と汗」としてずっといかせるようになるお子さんもいます。

親御さん、お子さんに私が伝えたいのは、学業や社会的な状態がどのようであっても、お子さんの「能力が低い」とは、私には思えないということ。
多くのひとと「ちがっている」あり方から、ひけめも断念もなく、望む方向に進める努力ができそうだ、と思える「図」を一緒に描くことの大切さ。

支えるさいの細かい「方法」を、私はたくさん使っていますが、細かい「方法」を使うだけでは、長期にわたってのお子さんの「道を作る」には到底足りないのも実際です。
そのためもあって、より「基盤」となることを、ここで先にお話しました。

「まれなお子さん」であること。お子さんが生まれて、ずっと感じて、悩み、この方向なら、と考えてこられた軌跡も、大切にしていただきたい。

私は、「1%の才能」を知る、「まれなお子さん」だと言っていますが、これは「何百人、何万人にひとりしか持てない力をもつ、あまりに珍しいお子さんだ」という意味ではありません。
親御さんが、お子さんを「たったひとりの」お子さんだと感じている/感じてこられた、
そのような意味で、表現しているのです。

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