このエントリーでは、「学びの場をひらく エーミール」代表の私(後藤敦子(山本))が、私をよく知る身近な人からどのように形容されているか、お伝えしたいと思います。また、最近私が、「人類の世界観を根本的に変革させた」とさえいわれる数学者ゲーデルについて学んでいること。けれども、私は学問・学術の世界の名誉や功績に、関心が高いわけではないこと。「現場主義」でもないこと。それらをお話することで、私がどのようにして、「特殊」とも形容される、ものごとの「とらえ方」を身につけてきたのかを、自分なりに考える機会とします。代表者プロフィールとしても、参考にしていただければ幸いです。

 

【内容】
1 「絶滅危惧種」と表現される私。何が「特殊」か、ときくと…
1.1 「ある種が絶滅すること」は、生物の歴史上、数えきれないほど起きてきた
1.2 「ふち(端)にある」から、なかなかない「とらえ方」ができる
2 「アリストテレス以来の…」「人類の世界観を根本的に変革させた」といわれる数学者ゲーデルを学ぶ
3 私は学問にも、現場にもこだわらない人間。ふりかえって、自分について思うこと

私をよく知る身近なAさん。Aさんも、ながく、私、後藤敦子が「ほんとうはどんな人間なのか」(Aさんは、それを「魅力」だといってくれますが)を知ることがなかったそうです。私が「裏表のない」「うそがない正直者」であることは、おそらく、私をよく知る人は、わかってくれているかと思います。ですので、「正体を隠していた」とかいう、あやしいことではないのです。7年前に京都から高野山に移住してから、ずいぶんのあいだ、私は、あえて「自分本来を出す」ことがなかったのか、Aさんも、私は「人にたいして、自分を出さない」とよく、いっていましたね。

さて、記事タイトルにびっくりされた方もいたかもしれません。私も、Aさんに私は「絶滅危惧種」だと表現されて、すこし驚き、そしてまじめな意味で、面白かった。
生物の「絶滅」は、とても奥深いテーマで、これもまた、国語(現代文)の入試問題で頻出です。「絶滅危惧」「絶滅」と聞くと、なにか危機的な、あまりに悲しいことが起きそうな気持ちがしますよね。でも、この地球で、種の「絶滅」は数かぎりなく起きてきたそうで、つまり、歴史としてみれば、ある種が「絶滅」すること、絶滅が「危惧」されること、そういったことは、「ふつうに起きてきた」ことだともいえるのでしょう。とはいえ、もちろん、いまの時代でいうと、クジラやトドの「稀少性」に、私たちは、それぞれ唯一の(uniqueな)意味を見いださなければならないでしょう。

「私を表現するとしたら?」の話題に戻りますね。Aさんに、別の表現をしてもらうと、「稀少価値」「特殊」だとのこと。「特殊って、どんなところが?」と私がきくと、「とらえ方が」とAさんはいう。ああ、なるほど。ものごとにたいする「とらえ方」が「特殊」。「特殊」と「一般」との関係も、よく研究されていることですが、それこそ「一般には」対義語だとされていますよね。

ふつうの人にはできない「とらえ方」ができる。Aさんはそういっていました。「ああ、なるほど。」と私が書いたのは、「とらえ方」「観点」「視野」を提案することは、私がいちばん得意とすることだからです。ベース(基礎)は私の専門のひとつが哲学であることにあるのでしょうが(あくまで「専門のひとつ」です)、もともと、そういうことには向いていて、哲学をやったことで、その力が一気に加速したのだろうと思うのですが。

Aさんは、私を「ホリエモンみたい」だともいいます。堀江貴文さんは私より二つ上の同世代で、この年代で、ホリエモンのような思い切った(彼は、まったく「思い切って」ものを言っていないと思いますが)発言ができる人、とにかく「発言者」がどうにも少なく、寂しい感じを私はもっています。いまは、ホリエモンが東大在学時に、「オン・ザ・エッヂ」という名で、会社を設立した、この名称が面白い、と思うことだけ、書いておきますね。”on the edge”(会社名は、英語では “Livin’ on the EDGE” とされた)ですから、「崖っぷちで」と訳せばいいかな。

「崖っぷち」、ともかく「ふち(または、端)」にあるからできる、ものごとの「とらえ方」は、ありますね。これがどこの「ふち」なのか、社会での? あるいは、自分自身のなかで、「ふちにあること」? 私自身は、どちらも必要だと思っています。これは、「限界に自分を追い込む/追い込まれる」こととは、ずいぶんちがいます。一時期、「エッジの効いた」という表現がよく使われましたが、私の場合、なにかが「効いている」のではなく、自分自身が「ふちにある」のだと思います。ますます、意味がわからないよ! という方が多いかもしれません。また、近いうちに別の記事で、このつづきをお話してみたいと思います。

(写真は、高野山ケーブルカーを降りたところにある「極楽橋駅」の景色。ここから、エーミールの教室・相談室のある橋本市まで、単線列車が走っています。)

ところで、いま、「アリストテレス以来の…」功績があると称えられ、「人類の世界観を根本的に変革させた」とさえいわれる数学者ゲーデル(1906年~1978年)について書かれた本を何冊か、読んでいます。ゲーデルが24歳の若さで証明した「不完全性定理」の「考え方」(私は文科系の人間なので、その「考え方」にふれているだけなのですが)に、感銘をうけたためです。数学・論理学・哲学はじめ、過去にさかのぼってもみつけることのできない功績となる定理を証明したゲーデル。彼は、のちに哲学志向を強め、亡くなるまでの26年間にわたって、ほとんど隠遁生活を送りました。ゲーデルは、亡くなる8年前に「神の存在論的証明」をしたことで、研究者たちに衝撃をあたえました。その最期は、どのようであったか、伝えられていることについて、また記事を改めます。とても、ここでまとめられるような内容ではありませんので。

私は、京大が学問をするところ、学者(研究者)を育てる使命を負ったところだとはほとんど知らずに(すみません)、「実家から通える授業料免除になる国立大学」が条件であったために、京大に行ったという理由が大きいです。京大で、世界、日本の学問の伝統をつくり、継承された先生がたに、まさか、というかたちで個人的に教えていただくことになりました。それは夢のような、めぐまれたことでしたが、いまに至っても、先生がたの期待に応えられなかった、という申し訳なさ、悔いのほうが大きいです。

このブログで、私はこれからも、名著、名作、さまざまな分野に功績を残した人物について、私自身はじめ、みなさんの「学びの場をひらく」ことができれば、と思っています。けれど、私は実は、学問・学術の世界の名誉や著名な方に関心が高いわけではありません。介護職はじめ、究極の現場職も経ていて、学術も現場も、どちらの経験もあることで、私がご提供できるものは多いと思いますが、どちらの世界にも「こだわって属したい」わけではないのです。よく誤解されるように、「壮絶に幅広い」人間でもありません。

だって、「広い」「狭い」、それは、どのように見定めるのか。これは、難問でしょう。私はただ、特にそんなことを考えない(あることを「考えないで括弧(かっこ)に入れる」ことを、現象学という哲学では、エポケーといいます)、そんな「ふつうの日常の暮らし方」を、ずっと素朴にみつめてきたのです。そう、ふつうにあたりまえのことを、ほとんどの人は「ずっと素朴にみつめて」きた、などと人生をかえりみない。やはり、私は「ふちにある絶滅危惧種」なのでしょう。

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