このエントリーでは、私がひきこもりの青年たちと向き合って、彼らの未来をともに考えるとき、私がどのような基本態度でいるか、お話します。ひきこもりの方について、「現実がわかっていない」「現実を考えると、○○は無理だろう」と、支援者や親御さんがみる場合は多い。しかし、「現実」や「現実の状態」とは、だれにとっても、把握しきれるものでしょうか? 生命の状態は「流れ」であり、「壊す」あるのみだとする生物学者・福岡伸一の「動的平衡」の考えにあるような視野をもつことが、ひきこもりの青年たちと接するときに、いかに活きるか。ここから、キャリア支援の基本である「自己理解」「仕事理解」の限界を考えます。

ひきこもりの青年が、「生まれてきてよかった」と思えるように。「生まれてきて、こんなに苦しんでいること」を、私はどんな生命の次元で感じているのか。なぜそんなことが大切なのか。お話します。

内容
1 あなたが「現実」だと思っているものだけが、「現実」でしょうか?
1.1 ひきこもりの方によく言われる、「現実がわかっていない」「現実を考えると、○○は無理だろう」
1.2 「現実」をだれかの尺度(ものさし)や枠で切り取り続けると、未来の範囲はどんどん限られていく
1.3 「現実の状態」は把握するものではない  —生命は「流れ」であり、「壊す」あるのみだと言う生物学者・福岡伸一
2 キャリア支援の基本である「自己理解」「仕事理解」の限界
2.1 「自己」も「仕事」も、理解・把握しきれない
2.2  願いに向かって努力できる人生を歩んでほしい
3 「生まれてきてよかった」と思えるように
3.1 なぜ「生命を感じること」が必要なのか、私たちの「出口」はなにか

ひきこもりの青年たちと向き合う時間は、私にとって、大切ななにかを取り戻すような、宝の時間です。彼らは、一般でいうところの世間、世俗から、いくらか離れたところにいる。彼らの多くが、学校での楽しい経験が、ごっそり抜けたまま、そのつらさ、悲しみをながく背負って、いまに至っています。学校や雇用社会で、みなが学ぶような考え方の枠の中でのみ、ものを考える人たちではないので、向き合っていて、私にはとてもたのもしい。
ひきこもりの青年たちは、支援者(私は、「支援」や「支援者」を「卒業」したので、このことばで指す仕事をしている意識はありません)や親御さんから、「彼は現実がわかっていない」「現実を考えると、彼には○○はまだまだ、無理だろう」と、みられることがとても多い。その「現実志向」の意味や心は、私にもわかります。でも、いったいだれが、じぶんの、あるいはだれかの「現実」を把握することができるのでしょうか? その「把握」や「見立て」には、ある尺度(ものさし)や枠(準拠枠)が用いられているはずです。

「別次元の」現実が、あるかもしれませんよ。まるで、回転式のホワイトボードの表面を、裏面にくるっとひっくり返すと、真っ白なあたらしい板が見えるように。いえ、そもそも、現実は、平面に描くことができないものかもしれませんよ。

これは比喩(メタファ、たとえ)ですが、こういった視野の転換ができること、このような態度でいることで、ひきこもりの青年についての無理な「現実把握」から、彼らの未来の範囲をどんどん限られたものにしていくことなく、私は仕事ができるのです。

「現実」は、把握できるものではないと、私は思います。「動的平衡」論で、画期的な視野をひらいた生物学者の福岡伸一の考えを知ると、ひきこもりの青年にたいして、「生命あるものが生きること」を感じる意味が、明瞭になります。福岡は、「属性を並べることによって操作的に答えたり定義するのではなくて、その本性をがっちりつかめるような言葉で生命を語ることができたなら、それが科学の出口なのではないか」「それが答えられるということが、私にとっての『大きな絵』(ビッグ・ピクチャー)なのです」と述べています(池田善昭・福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む ー生命をめぐる思索の旅』2020年、小学館新書より。以下、本書より引用・要約)。

福岡は、細胞というか生命というのは、「流れ」であり、「壊すこと」(細胞が細胞の中のものを壊すこと)が唯一、(細胞なり生命なりの)時間を前に進める方法だ、と言います。(このことをどう理解するかは、別記事で続けましょう。)

キャリアコンサルタントがおこなうキャリア相談・キャリア支援の第一歩は、まず「自己理解」、そして「仕事理解」(じぶんの仕事について、理解不足のところに気づいてもらう)である、とされています。私は、「自己」や「仕事」を、過不足なく理解できたと感じた時点で、「自己」も「仕事」も、ずいぶん可能性を失うだろう、と考えます。

先ほどの「生命は『流れ』であり、生命は『壊すこと』でのみ、時間を進めることができる」との生物学者・福岡伸一の考えを紹介すると、「話が異次元に迷い込んだ」と思う読者の方もいるでしょう。私は結局は、ひきこもりの方たちが、彼らの「願い」の数パーセントでも叶えられそうだ、との夢をもって、「生まれてきてよかった」と思うことができたらいいなぁと、彼らの心と向き合って、思うのです。彼らが、じぶんが「生まれてきたこと」をどう感じることができるか。もし、口には出さなくとも、多くのひきこもり青年が、このことを独りで問い続けています。だから私は、生命を感じることを、ここで問題にするのです。

「働けていない彼らが、どうやったら働けるようになるのか、はやく答えてほしい」と思いますか? たやすい道はなくても、工夫もでき、可能性もあるのです。そして、私たちが努力して、必ず還って(かえって)くるのが、なにが原点となるのか、私たちの出口(めざすところ、福岡の言う「大きな絵」)はなにかということです。目先のこと、社会の「ふつう」の生き方、働き方を彼らに習得してもらうことしか考えられないなら、長年ひきこもりで苦しむ方を支えるには、向いていないだろうと。

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